羊たちの沈黙

「羊たちの沈黙」は1991年に公開されたサイコ・サスペンス映画です。

アカデミー賞の主要5部門(作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞)をすべて制覇し、「或る夜の出来事」「カッコーの巣の上で」に並ぶ偉業を達成しました。

とりわけホラーのテイストが強い作品がアカデミー賞で評価されることは前代未聞で、今後もこの作品を超えるホラーは生まれないと思われます。

アンソニー・ホプキンス、ジョディ・フォスターらの名演技もさることながら、監督であるジョナサン・デミの手腕が光る作品です。

クラリスとバッファロー・ビルという2人がいかにトラウマと向かい合い、明暗を分けていったかを描いている本作は、見るものに訴えかけてきます。

映画好きなら見ておきたい名作「羊たちの沈黙」を考察していきましょう。

羊たちの沈黙(1991年)

FBIアカデミーの訓練生で野心的なクラリス・スターリングは巷を騒がせているバッファロー・ビル事件の解決のために、ある任務を命じられる。

バッファロー・ビルの心理を分析するために、精神病院に収監されている殺人犯で精神科医の囚人、ハンニバル・レクター博士に協力を要請するというものだった。

レクターは当初協力を拒んでいたが、クラリスに彼女自身の過去を語らせることによって助言することを約束する。

一方、バッファロー・ビルに上院議員の娘が誘拐される事件が発生したため、レクターを収監している精神病院院長チルトンは自身の出世のためにレクターを上院議員に売り込む。

捜査協力の見返りとして警備の緩い刑務所への移送を約束させるレクターだったが…。

羊たちの沈黙(ネタバレ・考察)

「羊たちの沈黙」自体にトリビアは多くありませんが、興味深い記録がいくつか残っています。

その中でも情報としてお伝えしておきたい要素を4点ご紹介していきましょう。

メンガタスズメとサルバトール・ダリ

ポスターにも登場する蛾はメンガタスズメと呼ばれる種類ですが、ドクロのように見えるのはサルバトール・ダリの「官能的な死」と呼ばれる作品のコラージュです。

この作品は写真家のフィリップ・ハルスマンとの共作で、女性を並べてドクロに見えるようにしただまし絵の一種になります。

メンガタスズメも背中に顔のような模様がありますが、ポスターはより死をイメージさせるコラージュになっており、本作が持つホラーテイストを強めているのです。

まばたきをしないレクター

レクター博士の登場シーンは約20分ですが、そのすべての登場シーンで博士はまばたきをほとんどしません。

アンソニー・ホプキンスの強い目力でクラリスを見つめるシーンは、博士の持つ強靭な精神力と意志の強さを感じさせます。

そのレクター博士が視線をそらす唯一のシーンが、クラリスと初対面で出会って見つめ合った時。

人間扱いしないほうがいいと言われていたレクター博士に対し、真摯に眼差しを向けるクラリスに負けたのか、先に視線を外すのです。

アンソニー・ホプキンスはベジタリアン

さまざまな料理法を習得し、スパイスの知識も深いハンニバル・レクター博士は若いときのトラウマから食人を行うようになります。

そんなレクター博士を演じるアンソニー・ホプキンスは実生活ではベジタリアンとのことで、人間はもちろんのこと肉は一切食べないそうです。

またレクター博士はワインを嗜みますが、ホプキンスはアルコール中毒だった時期があるため、アルコール類は一切口にしません。

ホプキンスはこの役に入るにあたって死刑囚の公判を見学するなどして研究し、この演技を可能にしました。

アメリカ国立フィルム登録簿に記録されている

アメリカ文化の遺産として保存に値すると判断された、重要な映像を毎年25作品ずつ選出し、アメリカ議会図書館にフィルムを永久保存する制度があります。

ホームビデオから映画作品まで幅広い映像が選ばれるのですが、「羊たちの沈黙」は2011年に保存フィルムに選ばれ、記録されました。

ホラーテイストを含んだ作品は「シャイニング」「エクソシスト」「ハロウィン」などいくつかありますが限られています。

その中で「羊たちの沈黙」はより芸術的で文化的な作品として認められたのです。

レクター博士について

怪物的な知識と超人的な能力を兼ね備える圧倒的な存在としてレクター博士は短い時間ながら観客に絶大なインパクトを与えました。

そんな彼の人となりや特徴について掘り下げて迫っていきましょう。

感情にあまり”ゆらぎ”がない

レクター博士にとって人間は基本的に平等ですが、無礼なものや自分に害をなすものには容赦しません。

殺人を犯すときも心拍数は上がらず、冷静に執行していることがわかっています。

クラリスに無礼を働いた囚人を自殺に追い込んだときも、怒りというよりは無礼な行動が許せず粛清したという程度でしょう。

感情のコントロールは完璧に見えますが、自分が信頼関係を築こうとしたクラリスが嘘をついていたのを知ると怒りを見せる場面もあるので、人間らしいところもあるようです。

尊敬するべき人間に危害を加えない

自分に真摯に向き合ってくれるクラリスに対して、一定以上の尊敬を持って接しているようにみえます。

また収容所のスタッフに対しても礼を言うなど、尊敬の念を持って接してくれている相手には尊敬の念で返す律儀な部分もあるのです。

人間を下に見ているわけではなく、きちんと分かりあえる相手とは友情を築くこともあります。

レクター博士が脱走したときも、クラリスは怯えず自分を襲うことはないという信頼を持っていました。

幾度となく交わしたコミュニケーションのなかで、クラリスはレクター博士と絆のようなものができていったのです。

チルトンはどうなったのか

劣悪な環境の収容所でレクターを迫害し、さらには自分の名声のために利用したチルトンはレクター博士逃亡の知らせを受けて南米へと逃亡します。

ですがそこには先回りしたレクター博士がいたのです。

雑踏の中に消えていくチルトンをレクター博士が追いかけていくエンディングが印象的ですが、結論をいえばチルトンはレクター博士に食べられてしまいました。

あれだけの無礼を働いたチルトンは消されるべくして消されたといえるのです。

続編の「ハンニバル」ではチルトンは南米で行方不明扱いになっていることが分かります。

ジェンダーから観る「羊たちの沈黙」

性差表現が随所に見える「ジェンダー映画」としての一面も持っている「羊たちの沈黙」は、見方を変えることによって更に興味深い映画となります。

劇中で随所に描かれるジェンダー表現が訴えかけたかったものをお伝えしていきましょう。

FBIアカデミーでのクラリス

FBIは基本的に男性が主体となって活動している組織で、クラリスは血のにじむような努力の上でトップクラスの成績を収めています。

ですがその努力とは関係なく、背の低くて美人なクラリスは性的な眼差しを向けられてしまうのです。

エレベーターで頭2つ分ほども高い訓練生の男性たちに囲まれているクラリスは、まるで子羊のようにも見えます。

捜査先でのクラリス

地元警察でクロフォードが警察官と話しているときに、女性の前では話しにくい内容だからといって席を外すシーンがありますが、ここもジェンダーを意識した場面になります。

身近な存在のはずのクロフォードからして、クラリスを一人前には見ていないということでしょう。

もちろん地元警官たちはクラリスを見て仕事仲間とは思わずに、奇異な存在がいるという認識で好奇の目を向けます。

そんな彼らをクラリスが「今から私が捜査するから帰ってくれ」と追い出すシーンは、ジェンダーを超えたクラリスの強さを感じさせるのです。

チルトンが精神病院でクラリスを迎えたときもナンパしてましたよね?
蛾の繭を調べに行ったときも飲みに誘われています。クラリスは小柄なこともあってセクハラの対象にされやすいです。

レクターだけが一人前の人間としてみてくれる

登場人物のなかで、唯一対等な扱いをしてくれるのがハンニバル・レクター博士です。

最初こそ女性であることをネタにからかっていましたが、意志の強さと尊敬すべき対応、素直な心にレクター博士は興味を持ちます。

クラリスの過去を聞いていくうちにクラリスを理解し、陰ながら応援していくのです。

自分を女性ではなく、人間として扱ってくれるレクター博士に対して、クラリスも信頼感を持ち始めます。

こうしてFBI訓練生と食人鬼の精神科医の間に、奇妙な絆が出来上がっていったのでした。

トラウマと向き合う映画

殺人鬼の話であり、ジェンダーの話でもある本作は、トラウマと向き合う心の話でもあります。

特に注目するべきクラリスとバッファロー・ビルのトラウマに焦点をあてて見ていきましょう。

クラリスのトラウマ

クラリスのトラウマは、父を失ったことで身寄りをなくし、親戚の牧場に預けられたことから始まります。

そこで屠殺される子羊を見てしまったクラリスは、羊たちを逃がそうとしますが何も知らない羊たちは逃げようとしません。

ここで育てられて他の環境も知らないのですから当然でしょう。クラリスは子羊を抱えあげて逃げますが、捕まってしまいます。

元から牧場で育てられていたのであれば、家畜は屠殺されることも理解できたでしょうが、預けられて間もないクラリスには相当ショックな出来事だったのでしょう。

”子羊=殺されてしまうかもしれない人”を助ける事によって、クラリスはトラウマを克服したかったのではないでしょうか。

レクター博士と会話することによってトラウマと向き合い、人質を救って乗り越えたクラリスは大きく成長しました。

バッファロー・ビルのトラウマ

バッファロー・ビルは幼少期に母親からひどい虐待を受け、心に深い傷を負いました。このことが彼を変身願望へと駆り立てます。

自分の性は間違っていると信じ込んだバッファロー・ビルは性転換手術を受けるためにいくつか病院を訪れ診察を受けますが、どこも彼は性同一性障害であると認めませんでした。

このことに激しいストレスを受け、女性になるために女性の皮を剥ぎ、服を作るという倒錯的な心理状態に陥ってしまったのです。

ジョナサン・デミ監督はこの表現をしたことでトランスジェンダーやゲイから偏見を生むと批判されました。
次作「フィラデルフィア」でゲイとHIVというデリケートなテーマを丁寧に扱うことで、批判に対して謙虚に応えました。

まとめ

父を早くに失ったクラリスに父性を持って交流するクロフォードとレクター博士の関係など、見方によっては父と娘の物語にも取れる奥の深い「羊たちの沈黙」。

物語の多重構造ゆえに観るものに感動と興奮を与えてくれる物語になっています。

最初はレクター博士の怪物性に驚き、その後ジェンダーを乗り越えるべくもがくクラリスとバッファロー・ビルの物語でもあることに気づくのです。

何度見てもそのたびに発見がある「羊たちの沈黙」はアカデミー5冠を達成するだけのことがある名作といえます。

ぜひおうちシネマで含まれている要素を見抜いていってください。

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