
「グラディエーター」は2000年に公開されたローマ帝政時代をテーマにした歴史映画です。
華やかなローマを写しながら落ち着いた色合いで表現し、観客がローマ市民の一人であるかのように感じさせる没入感が光る演出を見せ、アカデミー作品賞を獲得しました。
歴史とイマジネーションの絶妙なバランス感覚をみせる脚本、物語に説得力をもたせる俳優たちの熱演、リアルな戦闘シーンと見どころが多い本作。
作品に含まれている情報を紐解きながら、この作品の魅力について考察していきましょう。
グラディエーター(2000年)
舞台は帝政ローマ中期。平民出身の将軍マキシマスは誠実で無欲、また常人ならざる指揮能力で絶大な信頼を寄せられ、老齢の皇帝のアウレリウスから次期皇帝に指名される。
だがそれを知った皇太子コモドゥスは父を暗殺し、皇帝に即位する。暗殺に気づいて忠誠を誓わなかったマキシマスは処刑されかけるものの逃亡、家族のもとに駆けつけるが皆殺しにされていた。
力尽きて倒れていたところを奴隷商人に拾われ、剣闘士(グラディエーター)として売り出されたマキシマスはその強さを発揮し、観客の人気と剣闘士たちの尊敬を得る。
一方、新たに皇帝の座についたコモドゥスはアウレリウスが禁止した武闘大会を再開し、民の人気を得るために娯楽を与えて心をつかもうとしていた。
それによってローマ全土にいる名うての剣闘士たちが呼び寄せられ、マキシマスもローマのコロッセウムに登場することになった。
民衆の人気を得れば皇帝に謁見できるという話を聞き、マキシマスは復讐心を静かに燃え上がらせるのだった…。
グラディエーター(ネタバレ・考察)
アカデミー作品賞と主演男優賞などいくつもの賞を獲得した名作「グラディエーター」ですが、完成するまでに様々な苦労があったようです。
そんな気になるトリビアをいくつか用意しましたので、ご覧になってください。
ラッセル・クロウは脚本が気に入らなかった
マキシマスを演じたラッセル・クロウは脚本にあったマキシマスの死生観が気に入らなかったらしく、脚本を「ゴミだ」と罵倒しています。
その上で、「自分は世界一の俳優だから、ゴミみたいなセリフでも良くしてみせる」と言い切ったという逸話があるのです。
プライベートではその素行の悪さからハリウッドでも指折りの問題児として名指しされるほど、性格に難のあるラッセル・クロウ。
ですがその演技力は本物で、アカデミー男優賞を獲るほどの演技をみせました。
現在も数々の作品で活躍しており、まさに世界一の演技レベルに達しているのです。
ホアキンのアドリブで緊張感が増した
コモドゥス帝が実の姉であるルシッラに対し、自分の子を産めと命じているシーンで、突如コモドゥスが感情を爆発させ怒鳴るシーンがあります。
このシーンはホアキン・フェニックスのアドリブで、画面にも緊張が走りますが、撮影現場も緊張に包まれたとのこと。
暗殺されそうになり愛するもの、信じるものも無く情緒が不安定になっている皇帝の心理描写としてこれ以上ない演技となりました。
アカデミー助演男優賞にノミネートされた結果、惜しくも受賞を逃してしまいますが、ラッセル・クロウに引けを取らない演技をみせています。
実際の剣闘士はムキムキではなかったらしい
歴史家の研究によると、ラッセル・クロウのようなムキムキの剣闘士はいなかったらしいです。
その理由とは当時の剣闘士の食生活が炭水化物中心のため、割れた腹筋が目立つことなく、腹部も胸部も皮下脂肪に覆われていたとのこと。
メタボ体型のほうが傷ついたときのダメージが低く、身を守る意味でも剣闘士は率先して炭水化物、特に大麦を摂取していたようです。
歴史画に筋骨隆々とした戦士が描かれているのは、現代でいうと画像加工のような意向が含まれているらしく、昔も今も”画像を盛る”のは変わらないと思うと人間の本質は変わっていないのかもしれません。
マキシマスの鎧は重さ半分
マキシマス役のラッセル・クロウはスタントを使いながらも見事なアクションをみせました。特に鉄製の武器は殺陣の手順を一歩間違えれば大怪我に繋がります。
そこでクロウは他のメンバーよりも4週間早く現場に入り、入念にトレーニングを積んだそうです。
そんな彼の軽やかなアクションを支えたのが、美術チームの制作した鎧!
実は他のキャストが装備している鎧の半分くらいの重さで出来ているとのことで、動きやすく作られているのです。
撮影中は怪我の痛みや痺れなど、常に痛みを感じていたというクロウの熱演を支える要因になりました。


実在する人物とフィクションの融合
「グラディエーター」は歴史上の人物にアレンジを加えてスペクタクル作品として構成されています。
歴史の情報を紐解きながらキャラクターを掘り下げてチェックしていきましょう。
マキシマスのモデルは数人いる
最初は歴史上でコモドゥス皇帝を暗殺したナルキッソスという剣闘士がモデルに選ばれましたが、彼に関しての逸話が少なく、ドラマとして盛り上がりに欠けるため再構築されることになりました。
そこで経歴はマルクス・ウァレリウス・コルウスという将軍のものから引用されたようです。
彼は若くして執政官に任命され、皇帝の右腕として戦場で大いに活躍しました。
マキシマスと違い、100歳まで生きて大往生を迎えたのですが、遍歴はコルウスがモデルと考えて間違いないでしょう。
軍を率いて圧政に反逆したスパルタクスなど著名な剣闘士の要素も含んでいるようで、キャラクター設定に関しての苦労の跡が伺えます。
アウレリウスとコモドゥス、ルシッラは実在した
アウレリウスはローマ中期の皇帝で、五賢帝に加えられるほどの良い政治を治めた皇帝として知られています。
アウレリウスには一説によると7男7女の子供が生まれたそうですが、多くが若くして死亡してしまいます。この頃のローマではよくあることでした。
コモドゥスの姉ルシッラは次女として生まれたことが確認されており、史実でもコモドゥスの暗殺を図り流刑の憂き目にあっているのです。
アウレリウスの男子の中では唯一生き延びたコモドゥスは若い頃から次期皇帝への指名を受けており、暗殺せずとも即位出来ていたことが確認できます。
またアウレリウスが戦場で崩御したのは事実のようで、そのあたりを上手くアレンジして物語に組み込んでいるのです。
初の皇帝グラディエーターだったコモドゥス
作中でコモドゥスは奸計と策略を巡らせ、マキシマスの存在が自身の人気を損ねることに悩む神経質な皇帝として描かれていましたが、史実のコモドゥスは史上初の皇帝剣闘士でした。
自身をヘラクレスの化身と呼ばせ、狼の皮をかぶり、メイスを使って何人もの剣闘士や猛獣の頭を砕いてきたそうです。
また槍や弓矢の腕にも優れ、走り回る動物たちの頭や目を外すことはなかったと言われています。
コモドゥスはだいぶ控えめな強さになっているのか、それともマキシマスが強すぎるのか、想像するとまた楽しめる要素ですね。
リドリー・スコットの思惑
監督に指名されたリドリー・スコットは本作を史実に沿ったドキュメンタリーにするのではなく、スペクタクルとエンタテインメントの詰まった歴史モノとして作ると定めたのです。
スコット監督は本作を”歴史の本から引き抜いた1ページ”にしたいとは思わず、またローマ帝国についての様々な文献があるがどれが正確なのかもわからないと判断しました。
そこから、一番重要なのは”ローマ時代の精神に忠実であること”であり、事実に固執する必要はないと考えたのです。
結果的に2000年という節目の年に記念すべき作品ができあがり、多くのフォロワーを生み出し、古代ローマやギリシャをモチーフにした作品群が誕生しました。

マキシマスとコモドゥスの心情を考察
マキシマスは周囲を熱狂させる存在でありながら、本人は感情をあまり表に出さず、実直な性格が表情に現れるという難しい演技をラッセル・クロウはやってのけます。
一方でコモドゥスは皇帝の器でないことが随所で露呈していき、窮地に陥ってしまう状況に怒りを隠さない狂気をホアキン・フェニックスが見事に演じているのです。
対象的な存在であるこの二人の心情の変化やスクリーンから読み取れる情報を元に考察していきます。
皇帝を移譲されるマキシマス
マキシマスは、本人の中ではあくまでローマに仕える戦士(将軍)でしかなかったと思っていたはずです。
部下と家族を思い、戦でローマへ貢献し帰郷することがマキシマスの原動力になっているように見えます。
特に家族はかけがえのない存在ですから、アウレリウスから皇帝の座を渡されるときは真っ先に家族の事を考えて断ろうとしている、心のゆらぎが表情から読み取れるのです。
ですがコモドゥスに皇帝が殺されたことでアウエリウスの遺志を継ぎローマを守らねば、という感情が生まれたのでしょう。
その結果として処刑されそうになり、最愛の家族を失ってしまうマキシマスの悲しみは計り知れません。


帝位を簒奪したコモドゥス
コモドゥスは自分が皇帝になると思っていますが、自信がありません。それは、アウエリエスから愛されていないという自覚があったからです。
ですが心のどこかで、偉大なる父アウエリエスに理解してもらえているという思いもあったのでしょう。
実際は、マキシマスを皇帝に指名すると宣言され、「お前を正しく導けなかった」と愛されていないことを告げられてしまうのです。
どこまでも愛されていないという事実と、育て方を間違えたと告げる偉大な父の弱々しい姿を見て耐えられなくなり、コモドゥスは父を殺すのです。
このときのコモドゥスには深い絶望があったことでしょう。愛されていればコモドゥスにも違う未来があったのかもしれません。
マキシマスの変化を伝える表情の機微
マキシマスは奴隷商人に拾われ、初試合を生き延びてから次々と相手を殺していき、その強さに観衆は夢中になります。
この時点でのマキシマスは言われたから殺す、という虚無の精神しかなかったと思います。
プロモーターであるプロキシモに「ローマに行けば皇帝に会える」と言われ、復讐の念を燃やしたところから少しずつ変化が訪れます。
数多の危機を乗り越えるたびに人間らしさを取り戻し、個人的な恨みだけではなくローマを取り戻すための戦いを選ぶようになるのです。
その一方で、仇を討てれば早く家族の元へ行きたいと思っているフシもあり、コモドゥスを倒しても喜びはなく、仲間の開放と共和制の復活を指示し息を引き取ります。
そこに苦悶の表情はなく、安らかな死に顔でした。やるべきことをやった男の顔と言えるでしょう。
復讐に生きただけではなく、仲間の剣闘士とローマを救い、一人死んでいくマキシマスの機微を含んだ表情が、物語に深みを与えています。

コモドゥスはただの悪ではない
コモドゥスは元老院を無視し、国民に愛される皇帝になるべく闘技大会を開催しますが、そこに殺したはずのマキシマスが現れたことで思惑が狂います。
人気者のマキシマスを処刑すれば国民に反感を買ってしまい皇帝としての立場が危うくなりますし、マキシマスを生かしておけばいつ自分に牙をむくかわかりません。
どんな強敵を差し向けても打ち破り、何をしても民衆から支持されるマキシマスは、コモドゥスにとって除外しなければいけない目の上のたんこぶです。
国民の人気を得るため、自分の手でマキシマスを殺すために一対一の決闘をコロッセウムで行なうのですが、致命傷を与えていてもなおマキシマスには勝てませんでした。
どこまでもマキシマスに敵わなかったコモドゥスは愛を知らず、性格も悪かったですが、単純悪ではなく人間の悲哀を感じさせるキャラクターでもありました。
まとめ
独特の色調で統一され、映画らしい華々しさだけではなく静かな演技もふんだんに盛り込みエンターテインメント性とメッセージ性を両立した「グラディエーター」。
ラッセル・クロウの鬼気迫る熱演と、ホアキン・フェニックスの狂気、そしてそれを取りまとめたリドリー・スコット監督の技量によって不朽の名作となりました。
ちょっとした仕草や視線、セリフ回しに注目することで隠されたメッセージに気がつける味わい深い作品なので、何度でもおうちシネマで見返してみてください。
観るたびに新たな発見があることでしょう。